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忘れ去られた謎めく女性の肖像( 高橋諭治/映画ライター)


 映画を観るという行為は、しばしば「見知らぬ他人の人生を覗き見ること」だと言われる。確かにそうだ。私たち観客は登場人物の人生における劇的なターニングポイント、時には生死を分かつ瞬間に見入って、ハラハラしたり、胸を締めつけられたりする。理不尽な苦境に立ち向かう者を応援したり、負け犬の一発逆転劇にスカッとすることもあるだろう。
 ところが筆者のように、さして心の準備もなく『ワンダ』という映画を覗き込んでしまった者は、冒頭数分間を目の当たりにした途端、奇妙な動揺を覚えるはめになる。ペンシルバニア州の炭鉱町にぽつんと建つ一軒家。そこでは生活感漂う中年女性が、耳をつんざく泣き声を上げる赤ん坊をあやしている。貧しい労働階級の女性の現実を描く映画ならば、ごくありきたりな導入部だ。しかし本作はそんなこちらの直感をこともなげに払いのけ、主人公が別にいることを示す。居間のソファでふてくされたように寝ている女性、彼女こそ
がワンダだ。ワンダは“貧しさにあえぐ主婦”でも“育児に悩む母親”でもない。この冒頭の時点ですでに主婦/母親の役目を放棄し、社会の規範から大きく逸脱した存在なのだ。
それを裏付ける裁判所のシーンで、ひどく遅刻して出廷したワンダは、夫や判事に何ひとつ反論も自己主張もせず、離婚と親権放棄に同意する。
 続いてワンダは縫製工場に行く。そこで2日分の賃金の支払いを求め、人手が足りないなら雇ってほしいと頼むが、工場長は「君は縫うのが遅すぎるから雇えない」。おそらくこの工場は労働条件、環境共にかなり劣悪な職場だが、そこですらワンダは無用だと言い放たれ、無言で引き下がる。その後、あてどなくさまよい込んだ映画館で財布の中身をすられたワンダは、ここまでのシークエンスで家、家族、仕事、お金を全部失ってしまう。愛も財産も、居場所も存在価値もない主人公の境遇を、こんなにも淡々と簡潔に見せる映画なんて滅多にない。
 さらに映画が進むと、ワンダは“無い無い尽くし”の女性だということが明らかになってくる。無知、無頓着、無防備、無気力、無目的、おまけに無自覚。糸が切れた凧のようにこの世をさまよう彼女は、バーで食べ物とビールを与えてくれる男にのこのこついていくだけだ。ならばワンダは、おバカな尻軽女、もしくはしたたかな悪女なのだろうか。いや、そうしたいかにも映画的な人物造型の誇張はまったく施されていない。バーバラ・ローデン監督は当たり前のように平然とつかみどころのない“無い無い尽くし”の女性としてワンダを描くとともに、真意不明の謎をまとって流浪する彼女を自ら体現した。
 そもそも本作には、ワンダの背景や内面の説明がない。ワンダがミスター・デニスと出会うバーで、彼女はトイレに入って鏡と向き合う。通常のドラマの流れに沿うなら、ここは鏡の中の自分に「私って誰? 私の人生って、どうなってしまったの?」と問いかける場面だ。ところが鏡は無残に割れてしまっている。まるで「あんたはとっくに壊れているでしょ」と言わんばかりに。この演出はさりげなくも恐ろしい。また序盤、姉夫婦の家を出たワンダが、黒ずんだ石炭の荒野をとぼとぼと歩く姿を捉えた超ロングショットが凄い。ミケランジェロ・アントニオーニの映画のようにどうしようもなく茫洋とした不毛の風景と、必要以上に引き延ばされて弛緩した長回しの時間が、セリフでは説明されないワンダの荒涼とした心模様を表しているように思えてくる。
 この映画は目的地のないロードムービーでもある。ワンダはデニスの車に同乗して旅の道連れになるが、「ロマンティシズムを排除した『俺たちに明日はない』にしたかった」とローデン監督が語るように、図らずも逃亡犯のアウトローカップルとなったふたりのやりとりはさっぱり噛み合わない。見た目はセールスマン風だが、粗暴で支配的な強盗犯デニスは「ハンバーガーを買ってこい」「質問するな」と命令ばかりして、ワンダの服装や髪型に難癖をつける。平手打ちを浴びても、気まぐれに太股をまさぐられてもワンダは受動的であり続ける。愛はおろか、ポジティブな発展性を何ひとつ予感させない空虚な関係が、なぜそこまでと思わされるほど執拗に描かれる。それでも付き従うワンダが唯一、デニスに逆らうのは、銀行強盗の片棒を担がされ、妊婦に成りすますよう強要されるくだりだ。「絶対出来ない。無理よ!」。それまで屈辱的な仕打ちをいくら被っても感情を露わにしなかったワンダが、初めて激しく取り乱し、嘔吐を繰り返すこのシーンは、外見からはうかがい知れない彼女の内なる混乱が噴出したかのようだ。
 そしてご覧の通り、この行き先不明のロードムービーは、終盤の銀行強盗シーンで呆気なく断ち切られる。時限爆弾、拳銃、人質の拘束、脅迫といったクライム・スリラーのお膳立ては整っているのに、スリルをかき立てるサウンドラックやカタルシスが欠落した不完全なクライマックス。デニスが射殺された後に現場に駆けつけたワンダは、野次馬に混じって立ち尽くすだけだ。その放心した“宙ぶらりん”の顔には、このうえなく生々しくて複雑なやるせなさが浮かんでいる。
 拙稿で最初に記した「映画を観るとは、見知らぬ他人の人生を覗き見る行為」に立ち戻るとすれば、私たちは『ワンダ』でいったい何を見たのだろうか。むろん、本作がフェミニズムの文脈で論じられてきた伝説的なインディペンデント映画だということは承知しているが、女性の解放や抵抗を主題に掲げたわけでもなく、犯罪映画、冒険映画としても不良品と見なさざるをえないこの映画は何なのだろう。
 すべての解釈は観客それぞれに委ねられているが、序盤であらゆるものを失い、不条理な抑圧と漂流の旅の果てに、なおも負のスパイラルに囚われ続ける女性の肖像をまざまざと目撃してしまった映画体験の衝撃性は尋常ではない。しかもローデンの最初にして最後の監督作となったこの1970年作品は、精神的な結びつきを感じさせるテレンス・マリック『地獄の逃避行』(73)、ジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』(74)、シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』(75)、ロバート・アルトマン『三人の女』(77)、アニエス・ヴァルダ『冬の旅』(85)、ケリー・ライカート『リバー・オブ・グラス』(94)に先んじて作られたのだ!
 最後に、本稿ではワンダを“無い無い尽くし”の主人公だと身も蓋もない言葉で評したが、ローデン監督が彼女を取り巻く世間の“無関心”を残酷なまでにあぶり出している点も指摘しておきたい。からくもワンダは逮捕を免れたが、ラストショットのストップモーションはひとりぼっちの監獄で撮られたポートレートのようだ。映画史においても長らく忘れ去られていた謎めくアンチ・ヒロインは、製作から半世紀経った今を生きる私たちの胸をざわめかせ、獰猛なまでに射貫こうとしているのだ。